ベトナムの将来

ホーチミン市に愛を

ベトナム・ホーチミン市に到着してすぐ、家族には辛い思いをさせてしまいました。これは難しいことではありません。8月の終わり、32度近い気温で湿度も高かったです。私たちはレストランでランチをするためにひたすら歩いていました。

最初、私の妻のジーンと娘のサシャ(7歳半)とサンディ(もうすぐ4歳)はやる気満々でした。Airbnbで借りた部屋は、空調設備があるタイルの床とレンガの壁のベッドルームが2つあり、黄土色のアートが施されたディストリクト1にある建物で、とても穏やかなところです。屋外カフェの低いプラスチックの椅子が長い何もない壁際にあり、日よけの木は電線のかせを超えていました。賑やかな大通りに出ると、私たちは互いに手を繋ぎ、バイクが私たちの周りで突然道を逸れることがないと願いながら、勇気を持って道路に足を踏み入れました。(実際に彼らは急に進路を変えたのです!)

すぐに日差しが強くなり、マーケット通りを歩いている間ずっと汗をかいていました。荒く舗装された道路は埃っぽくじめじめしていて、買い物客の賑わいと小さなトラックで混雑していました。果物や野菜、魚や豚肉の熟れた匂いはそれらの色をより鮮やかにしています。行動、騒音、香り、ドラマの全てがにエネルギーが渦巻いているようでした。

子供がぐずり、抱っこしました。誰も「まだ着かないの?」と聞きませんでした。ついに、気が遠くなるような15分後、蛍光灯がチカチカとしているChi Tuyenというレストランに到着しました。青いプラスチックの椅子と軽い金属で作られたテーブルに案内され、ブンティットヌン(豚の炭火焼肉とレタスやミントなどのハーブがのった冷たい麺)を注文しました。子供達は落ち着き、サンディはレストランにいた子猫と遊び始めました。外は雨が降り出し、どんどん強まりました。私たちは追い込まれましたが、どこへも行きたくないと思ってしまいました。
20年前、私はここへ移住しました。ベトナムとアメリカは国交が正常化したばかりで、私は大学を卒業したての若者でした。時が経ち、私は人々がサイゴンと呼ぶ街が好きになりました。そこは道が入り組んでいて、様々な食事が楽しめ、人々の熱意であふれていました。今までの旅で、本当に気に入った場所はベトナムだけです。
しかし、1997年から何度もベトナムを訪れているにもかかわらず、家族を連れてきたことは一度もありませんでした。ジーンの家族は台湾に住んでいて、アジア旅行は台湾へ行くことを優先してきたからです。2016年の夏、長期間台北へ行き、あまりにも長い期間だったので、私は1週間ベトナムへ旅行することにしました。はじめにホーチミン市を訪れ、その後ニャチャンの近くのリゾートで2日間過ごしました。そこは家族にとって、私を作り上げた場所を理解するには十分な場所でした。それでも私は、私が最も愛する家族は、私が最も愛している国を愛してくれるのだろうか?と心配していました。

この質問にノーと言えるでしょうか。全てが心の底から楽しいのです。私たちのビルの入り口があるところからすぐのところにレストランがあり、毎朝トレーで朝食のボー・フエ(牛と豚の辛いスープの麺)やバインミー(目玉焼きとバゲット)を運んでくれるのです。隣のカフェでは、自家製豆をローストし、コンデンスミルクが入ったベトナムのアイスコーヒーを頼み、トゥレジュールという韓国のチェーン店で子供達のためにパン菓子を買いました。それを居心地のいい小さなアパートで食べ、満足しながら「まるで昔に戻ったみたいだ」とため息をつきました。でも今は、この気持ちを共有する家族がいるのです。

それから、長い間妻に会わせたかった友人に会いに行きました。Quynh Anh Phamという痩せた優雅なビデオプロデューサーで、QAとして知られています。彼女は転職し、今はホーチミン市の有名な花屋の店主です。彼女の店とカフェ「パドマーデフラー」はまだ開発中の路地にあり、中庭はモカラ、青やパステルピンクで塗られた水やりの缶、古びた金属で作られたランプで覆われています。QAが私の子供たちに出してくれたレモネードには、薄い色のバラが添えられており、ここにもサンディが一緒に遊べる子猫がいました。これがクラシックなサイゴンです。カジュアルな客がなかなか出会えない洗練された美しさのオアシスです。

パドマーデフラーのような場所は、市の風景の変化を見たときに、とても貴重に感じました。日本の百貨店である高島屋がサイゴンの中心地にオープンし、120年前に建てられたオペラハウスや騒がしいベンタイン市場の近くにあるのです。

その百貨店には世界の高級ブランドがぎっしり詰まっていて、日本のフードコートもあります。それは私に1996年を思い起こさせました。1996年にもモールはありましたが、たった1つ、サイゴン・スーパーボールが空港の近くにあるだけでした。人々は恐る恐るベトナム唯一のエスカレーターに乗ったものです。現在では、高島屋にもエスカレーターはありますが、4インチの高いヒールを履いた女性以外、誰も怖がる人はいません。百貨店はとてもノーマルで、サンディが走り去って10分間迷子になっても動揺しませんでした。ここはもはや、誘拐を心配するような荒れた街ではないのです。

どこを歩いても、昔のベトナムと比べてしまい、残念なこともありました。例えば、ベンタイン市場の前の通りは広く、太陽がよく見えるいい景色でしたが、再開発で夜にこっそり貝類のレストランになるガレージを含む古い建物が壊されてしまいました。

しかし、サーシャは受け入れました。「私はベトナムのこの部分が好き。」と彼女は多久市0の外を見つめながら言いました。「こっちの方が洗練されている感じがする。ナイスで清潔感があって、見た目もいいわ。他の部分は…。」

彼女は語尾を濁し、私にはその理由がわかりました。ベトナムは私の家族にはヒットしませんでした。暑さに耐えられないのです。(彼らはアジアの夏に何を期待していたのでしょう?)彼らは土屋カオス、虫が好きではありません。子供達は暇だと文句を言います。(まるで家にいるかのように。)ジーンは「東南アジアは家族向けではないわ。」と言いました。

私はそれにどう対応すれば良いのか、大体わかっていました。何十年も東南アジアで暮らす外国人家族を見てきて、自分の家族も連れて来たいと思ったのです。一方で、ニューヨークのように、ホーチミン市は観光客のためではなく、活気のある現地の人々のために存在しているということも理解していました。この都市はよそ者のことは気にせず、そこだけで盛り上がることで必死なのです。

その盛り上がりが私にはぴったりでした。どんなに暑い日でも、シントーという冷たいフルーツ(オレンジ、マンゴー、バナナ、トゲバンレイシ、アボカド)のシェイクはバックパッカーの多い路地から、チョロンのマーケット街、チャイナタウンなどどこでも売っています。タクシーやウーバーを使い、バイクには乗りません。古着屋のメイヘムで服を探し、サーシャのための大きなフラッタースリーブの服や、ジーンのお花のドレスを見つけることができます。どれほどこの市が発展したのか、私には想像もできませんでした。20年前、古着は貧しい人のためのものだったのに、今はそれらを手にするのにクレジットカードが必要なのです。

もう一人の友人、ベトナム系アメリカ人のアーティストであるTrong Gia Nguyenがダウンタウンのギャラリーへ連れて行ってくれました。2003年にオープンしたGalerie Quynhで、Trongのある作品に釘付けになりました。レーザーカットのブリーズソレイユ、ベトナムでよく見られる日よけのパターンが窓のサイズに切ってあったのです。Diaプロジェクトで、ジーンと私は“Fruits, Children & the Cutting(フルーツ、子供達とカッティング)”という、Mai Hoangの不穏で魅力的な水彩画作品に酔いしれました。子供がドラゴンフルーツ、パッションフルーツ、いちごとして描かれており、切ったり剥いたりしてあるのです。サーシャは作品の前で座り込み、ノートを開いて集中して描いていました。サンディはTrongの友人のAthesiaと遊んでいました。彼女たちはアナと雪の女王の話をしていたそうです。

時折、彼女たちは自分たちで楽しみを見つけていました。ウーバーでチョロンを通っている時、ジーンが、20世紀初めの3軒のお店を指さしました。それらはとても古いものでしたが、チャーミングでもありました。

「これは映画「愛人」が撮影されたところですか?」と彼女は興奮気味に聞きました。その映画は1992年に公開されたマルグリット・デュラス原作の作品です。彼女がそのように熱狂できるものを見つけられるのなら、私の実験は成功と言えるのではないでしょうか。愛は問題にならないかもしれませんが、私はその他を受け入れます。

代わりに、私には感情の交錯がありました。グリルした豚肉と酸味のある魚のスープを古くからの友人たちと味わい、歩道にはゴキブリが’います。Humというスタイリッシュなベジタリアンレストランでマルティーニを飲むことは中毒になりそうですが、入国するときにスタンプを押した厳しい移民局の職員のことを忘れることはできませんでした。(ジーン曰く、「彼は私たちに会うことを嬉しく思っていないようだった」とのことです。)植民地時代の小屋をホグワーツ城のように改装したSomewhereland-Madam Fatty Fattという奇妙な名前の店で、子供達は手作り教室に参加しフェルトを切って帽子にしたり、マントを作って魔女に変身したりと、満足しているようでした。(その間、ジーンと私はアイスコーヒーを飲んでいました。)しかし、これはサーシャには冷たすぎたようです。「若いうちは、座ってのんびりなんてしたくない。」と彼女は言います。「動きたいでしょう!」

ビーチへ移動する前日に、昔のベトコンの基地が地下にあるクチトンネルへ行くためにバンを予約しました。そこまではホーチミン市から90分ほどかかりますが、主要な観光地となっています。ついに子供達は歩き回ったり登ったりすることができました。私が爆弾の衝撃でできたクレーターの池を指差し、戦争について説明している間、敵の兵隊を捕まえるための野蛮な罠に目を向けていました。そしてもちろん、メートル級の高さのあるトンネルにも登りました。それはすべての子どもたちの夢でありますが、アメリカ人の汗の川を描くものでもありました。

私たちが出発した後、サンディ(トンネルの中でもしっかり立つことのできるくらいの身長)は「夜ご飯を食べすぎてるから、みんなトンネルの中で立てないのよ。」と説明しました。

サーシャは簡潔に、「この場所は素晴らしいわ!」と言っていました。

私はあることに気がつき、心が温まりました。私の子供たちは…観光客で、彼女たちはここを気に入ったようです。彼女らは楽しいことが好きで、休暇中です。私は何を期待したのでしょう?ある日、ひょっとしたら簡単な楽しさには興味がなくなり、ベトナムがどのように父を父にしたかについて知りたくなる時が来るかもしれませんが、それは今日でなくてもいいのです。明日私たちは綺麗なビーチのリゾートへ行き、ブルックリンの私たちのアパートの2倍はあるプール付きのビラ(1日500ドル)に滞在するのです。いつの日か、確実にホーチミン市に戻って来るでしょう。それは来年ではないかもしれませんが、いつの日か、です。そして過去のベトナムとその時の最新のベトナムを比べ、思いを馳せるのです。

ジーンはベトナムの再訪について1つの条件をつけました。
「次回はより素敵なところにステイしたいわ。」と彼女は言いました。

標準