なぜ私の国の新年を取り入れるのに24年もかかったのか

私はいつも旧正月と複雑な関係を持っていました。

一方で、伝統的なもので何が一番気に入っているかを考える機会でもありました。ここ10年ほど毎年、新年(ベトナムではテトと呼ばれています。)の朝には私の犬が両親の家の敷居をまたぐ最初の生き物となっていました。

私の両親はいつも犬は幸運をもたらすと考えられていると言っていました。(一方で猫は悪運をもたらすとされています。)そして元日に最初に家の敷居をまたいだ人が、その1年の運を決めるとされています。

私は犬が大好きなので、これは私が特に気にっている伝統で、おそらく私の心に唯一響くものです。しかし、私はいつも休暇では辛い思いをしてきました。

1つ目は、これが国民の休日ではなく、子供の頃は、なぜ1月1日のように祝うのかを全く理解できませんでした。私の両親は学校の重要さについていつもきつく言っており、私に学校関連のことでは何もミスしてほしくないと思っていました。そのため、文化上重要なお祝い事であっても、休むことは難しかったのです。

仮に学校が旧正月を認めたとしても、多くの文化で祝われているにもかかわらず、大抵それは中国の新年と位置付けられていました。私の同級生たちはどのように餃子を作るかを教えられ、ハッピーニューイヤーは”Gung Hay Fat Choy”と言われていました。教師たちが善意で休暇を認めても、ベトナム人にとっては真の意味で会話に参加できていないように感じていました。アジア人は一枚岩だという神話で、みんなどこかは中国人であるのです。

更に、あなたがやんちゃな子供だった頃、新年の最も楽しい部分は”li xi”と呼ばれる、幸運を祈った赤い封筒に入れられた少額のお金を親族からもらえることだったと思います。

しかし私は数年前にカリフォルニアからニューヨークシティーに移り住んで、犬を飼わなくなってからは、旧正月を感じることは少なくなりました。私のベトナム系アメリカ人というアイデンティティも関係しているのかもしれません。

私はこれまでに、私と同じように感じている人々と話してきました。彼らもまた、家族と離れて暮らすようになってからは、文化に触れることが少なくなったと言います。これは、私がベイエリアから引っ越した後北カリフォルニアのスラングである”hella(極端に)”を使うようになったきっかけでもあります。

私の両親は常に私と文化の架け橋となっていました。5歳まではベトナム語しか話せなかったにも関わらず、学校に行き始めると出来るだけ早く英語を理解しなければならなくなり、今私はベトナム語を話すことすら滅多になくなりました。私は両親から約3,000マイル離れたニューヨークシティーに住んでいて、私自身のベトナム人の部分に触れることは難しくなりました。しかし、もしあなたに役立つ部分を見つけたいのなら、アイデンティティと文化には時々向かい合う必要があるのです。

確かに、私は今でも私にとってどのような意味があるのかを理解しています。過去2年間、旧正月を祝う友人と持ち寄りパーティーをしてきました。そしてもちろん、犬がいなければこのお祝いは成立しないので、犬と一緒に祝う方法を探索しています。お祝いの衣装を着せられると思って、犬は嫌がるかもしれませんが。

今年、私は両親が行ってきた伝統を引き継げるのかを理解するため、彼らが私のそばにいなくても、近所のお祝いに参加するつもりです。(私は現在チャイナタウンに住んでいます。)

テトはベトナム人のカトリック教徒にとって、文化と宗教と伝統の融合です

すべてのものはテト(ベトナムの旧正月)に向けて新しくしなければなりません。
「初日、私たちは新しい服を着ます。」とランカスター州のデューク&リバティー通りにある聖アンナカトリック教会のベトナム人教皇であるJennifer Le氏は言いました。
「私たちは髪型を変えるために午前2時まで待つのです。」と語るのは、聖アンナカトリック教会の牧師Tri Luong氏です。

Le氏はテトを金曜日に始まる「1年で1番盛り上がるお祝い」であると言います。
日曜日の10時15分に、聖アンナが娘(のちの聖母マリア)を抱いた像とベトナム人の聖母ラ・バンの2つの等身大の白い像が教会の庭に捧げられます。この像はベトナムで作られたものです。

Ronald Gainer司教師が10時30分から2ヶ国語のミサを行い、Luong氏が通訳をします。午後からは食事と娯楽のレセプションが行われる予定です。

5歳から20歳の学生による聖餐の青年運動が庭で行われ、サービスの中で案内係として働きます。

ベトナムでは、カトリックはテトを10日間祝います。「仕事も家事もしません。」と27年前19歳の時に美容師としてここへ来たLe氏は言います。「学校も休みです。みんな家にいます。」

Luong氏は、「今はより西洋化されています。しかし過去には誕生日、家族が一緒にいられること、先祖へ敬意を表す祝いをしていました。」と言います。

日曜日のお祝いは2つの伝統を含んでいます。1つ目は”li xi”(幸運のお金)を子供達にあげること、もう1つは大人を祝福することです。

幸運のお金(赤い封筒に入った新札)は年長者が若者に渡すもので、幸運や繁栄を願うものだとLe氏は言います。Gainer氏とLuong氏が封筒を配ります。

Le氏の夫であるChieu Le氏はテトの準備を進めてきました。

「前夜に家の拭き掃除をし、全ての負債を返済し、仕事を終わらせてきました。」と彼は言います。

「そして人々は他人に本当によくしようとします。仮に怒りを感じても、とげとげしいことは言いません。この先1年不幸になりたくないので、みんな外ではいい顔をするのです。」

Chieu Le氏は20人の合唱隊の指導をしており、大人への祝福は、祝いへのチケットに書かれた聖書の韻文であると説明しました。

「彼らは匿名でいたいのです。」とChris Whalen教区長は言います。「彼らは3年かけてそれを完成させたのです。」

司教は教皇の職が設立された3年前にLuong氏を教区に任命しました。

「難民がネットワークを構築する場があるというのはとても重要なことです。」とWhalen氏は説明し、「ベトナム人で教区になった人は誰もいませんでした。」と言いました。

Whalen氏は、全てのベトナム人はこの国へたどり着くまでに驚くような体験をしてきていると言います。

「彼らは感謝の心を持っています。全てを失いましたが、とても明るい人々です。これは本当に素晴らしい結びつきです。」

Chieu Le氏はアメリカ軍の州兵でパイロットとして働いていましたが、退職後はアームストロングワールドインダストリーズの電気系技術者として働き、42年前にこの地へ来ました。

「私は私自身から流れ出たのです。」と彼は言います。「私には指令があり、耐えて乗り越えなければならなかったのですが、それができませんでした。」

彼は、ベトナム戦争における彼の役割をPBSシリーズで回顧しています。

Nyu Anh Phamさんは27年前、21歳の時にここへ来ました。

「私の父は船乗りとしてここへ来ました。」と薬剤師のPhamさんは言います。「彼は私に投資してくれました。私は1人でここへ来て、13年後に母を連れてくることができました。」

Phamさんは合唱隊の副ディレクターをしてます。彼女の母は合唱隊のピアニストです。

Luong氏もまた「船乗り」で、38年前に南ベトナムから逃げて来ました。

「私たちは去れないのです。」と彼は言います。「逃げなければならなかったのです。」